2012年10月アーカイブ

掛川城

Sunday, 28 October 2012
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。

しかし嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。

掛川城01.png

小谷城

Friday, 26 October 2012
谷奥の平地部分に浅井長政・お市の屋敷跡と伝えられる「御屋敷跡」があり、谷の入口に向かって浅井氏の菩提寺の徳勝寺跡、観音寺跡、浅井氏一族の浅井山城守の「山城屋敷」、姉川の合戦で討ち死にした遠藤直経の屋敷跡「遠藤屋敷」、浅井きっての猛将磯野丹波守員昌の屋敷跡など、浅井氏の寺院や一族・重臣の屋敷の地名が今に残る。

小谷城05.png

安土城

Sunday, 21 October 2012
【石塁と大手三門】
安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4カ所の出入り口が設けられています。

通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1カ所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸(ぎょうこう)を計画していたことから、城の正面を京の内裏(だいり)と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと推定されます。
安土城06.png

白鳥城

Friday, 19 October 2012
呉羽丘陵の最高峰にあり、眼下に富山平野を一望できる。

白鳥城06.png

松江城

Sunday, 14 October 2012
【松江城 石垣】
松江城の石垣は、打込(うちこみ)はぎといって石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方がほとんどで、慶長年間に築かれた城によく見られます。
又、自然石やその割石を積んだ野面積(のずらづみ)や石を全面加工した切込(きりこみ)はぎも一部に見られます。

ここの石垣台にはよく見ると分銅の形をした記号がのみでたくさん刻み込まれています。
これは松江城を築いた堀尾家の紋です。また、二之丸下ノ段の西側石垣にも△印などたくさんの刻印を見ることが出来ます。
刻印は、工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号と考えられています。
松江城04.png


小諸城

Thursday, 11 October 2012
【小諸城 懐古園】
小諸城は、千曲川から切り立った崖の上にあり、浅間山の火山灰台地が浸食してできた田切地形の谷に囲まれた堅固な城です。
また、城下町より低いところに城内が築かれた特徴のある「穴城」で、戦国時代の遺構を残す城として日本100名城にも選ばれています。
そして、「小諸なる古城のほとり」、「懐古園」として明治の文豪「島崎藤村」をはじめ多くの文学を育んできました。
小諸城址「懐古園」は、日本さくら名所100選の地でもあります。

komoro03.jpg

komoro04.jpg


鳥越城

Monday, 08 October 2012
鳥越城址は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓の先人たちの記念碑としての歴史上の意義をもつ。

ここに近隣の関連深い二曲(ふとげ)城跡と併せて史跡に指定し、その保存を図るものである。

torigoe15.jpg



安土城

Thursday, 04 October 2012
築城開始から三年後の天正7年には天守が完成して信長が移り住みました。

しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天守・本丸は焼失してしまいます。

それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄(のぶかつ)や孫の三法師(さんぽうし)が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。
しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城になるのです。

その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺(そうけんじ)がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。

安土城05.png

artisan-net.com