2012年9月アーカイブ

川中島古戦場

Sunday, 30 September 2012
ここ八幡原史跡公園は、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とさせています。

信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊、上杉謙信が籠る妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。
後世、啄木鳥戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。

しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との先端を開きます。
激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机にすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎打ち」の伝説もこの戦いで生まれました。

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新発田城

Friday, 28 September 2012
この城は、慶長3年(1598)に越後蒲原郡六万石(のちに五万石、十万石となる)の領主として加賀大聖寺から移封された溝口秀勝が、上杉景勝と戦い落城した新発田重家の城跡を取り入れて築いたもので、版籍奉還まで約270年間、外様(とざま)大名溝口氏の居城となってきた。

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岐阜城

Monday, 24 September 2012
戦国時代の動乱の中で、土岐(とき)・斎藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。
大永5年(1525)美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護斎藤氏の実権は、長井氏に移りました。
稲葉山城も斎藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)の居城となりました。
新左衛門は斉藤道三(どうざん)の父親といわれ、大永から享禄年間(1521~32)の史料に、名前がしばしばでてきます。

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金ヶ崎城

Thursday, 20 September 2012
金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。

南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城。約半年間足利勢と戦い翌2年3月6日遂に落城。尊良親王、新田義顕以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。

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横須賀城

Monday, 17 September 2012
天守台周辺には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。
建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のため土塁がありました。

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金沢城

Friday, 14 September 2012
【石川門】

宝暦の大火(1759)の後、天明8年(1788)に再建され、現在に伝わっている。

昭和25年(1950)国の重要文化財に指定された。

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姫路城

Sunday, 09 September 2012

姫路城は播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まりました。
その後、小寺氏、黒田氏が城主となりました。
最近の研究では築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆のときとする説もあります。

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一乗谷

Thursday, 06 September 2012
【朝倉義景館】

この館は山城を背にして西を向き3方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓(すみやぐら)を構えている。

内部には10数棟の建物群がみられ、これらは大きく2つに分けられ、1つは主殿(しゅでん)を中心として南半に位置するもので、接客の機能を持ち、会所や数寄屋・庭園等もみられる。

もう一つは常御殿(つねごてん)を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や持仏堂・湯殿等もみられる。

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金沢城

Sunday, 02 September 2012
【いもり堀】

いもり堀は、金沢城の南西側を囲む外堀です。江戸時代後期の絵図や文献にこの名がみえますが、名称の由来ははっきりしていません。

明治40年(1907)、陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。

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