2012年8月アーカイブ

関ヶ原古戦場

Thursday, 30 August 2012
【桃配山】

天下をわける壬申(みずのえさる)の大いくさは1,300年ほどまえであった。

吉野軍をひきいた大海人皇子(おおあまのおうじ)は、不破の野上に行宮(あんぐう)をおき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。
急ごしらえに御所に、皇子がはいったのは、6月27日である。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をさぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。

「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」

皇子は、行宮につくがはやいか、桃のむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。
くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。
皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領(たいりょう)をよんだ。
「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。」どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士(もののふ)みんなに1こずつ配ってやりたい。
戦場における魔よけの桃だ。

これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士にみんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」
大領、宮勝木実(みやのすぐりこのみ)は、胸をうたれ平伏(へいふく)した。
木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもりしている。

「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子(てんし)さまからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう」
このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬(すうまん)の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。

この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山(ももくばりやま)とよんで、いまにつたわっている。
900年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、1日で天下を自分のものとした。

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坂本城

Sunday, 26 August 2012
織田信長配下の明智光秀は、山門焼き討ち直後の元亀2年(1571)下坂本の湖岸に大天主と小天主をもつ水城を築きました。

当時来日していた宣教師ルイス・フロイトはこの坂本城をのちに築城される天下の名城安土城についで豪壮華憐な城と述べています。

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小諸城

Thursday, 23 August 2012
【小諸城 懐古園】

天文23年、小諸城は武田氏の所領となり、重臣山本勘助らに縄張りを命じて複雑な地形を巧妙に利用し、穴城を築城する。
その後、信玄は弟信繁の嫡男信豊を城主とする。

以後、城主は原型を継承して堅固な帯曲輪と石積みの。城壁。大手門など城門を築き近世の城郭に改修する。
明治初期、牧野康済の廃藩で小諸城となり懐古園になる。

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春日山城

Sunday, 19 August 2012
【春日山城址 空堀跡】
千貫門の内側に連続する2本の堀が造られていて、門の位置からは道のように見えます。

空堀は通常尾根を分断するように造られますが、ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われます。
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松任城

Sunday, 12 August 2012
松任城は、JR松任駅南の古城町を中心に殿町、西新町にまたがってあったといわれ、平安時代末期に当時を支配していた松任氏の館として成立し、後に一向一揆の旗本である「松任組」の本拠地として城砦の形が整えられてきました。

天正5年(1577)に上洛を目指す上杉謙信に攻撃を受けますが、その時の城主・鏑木頼信が和睦にまで持ち込んだといわれています。
これは松任城の南約6kmの水島付近に、七尾城を目指す織田軍が既に陣を構えていたからでしょう。

しかし、織田軍は謙信が七尾城を攻略したとの知らせを受けるないなや、夜半に退却をはじめます。
手取川は数日来の雨で氾濫しており、謙信はこの機を逃さず松任城より水島へ兵を進めます。

この手取川の戦いは、謙信と信長の最初で最後の戦いとして有名です。

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松江城

Thursday, 09 August 2012
明治の初め、全国の城は殆ど壊されたが、松江城の天守は地元の豪農勝部本右衛門、旧藩士高城権八ら有志の奔走によって山陰で唯一保存され、松江のシンボルとして親しまれている。

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福井城

Sunday, 05 August 2012
江戸時代有数の都市である福井は多くの人材を排出している。

秀康の家老である本多富正は芝原上水を開き、彼の屋敷周辺は1万石以上の家臣の屋敷が並び「大名町」の名が残る。

芸術工芸面では、江戸初期の絵師岩佐又兵衛、刀工下坂康継等が著名である。
特に幕末末期の人材は豊かで、第16代藩主であり名君とたたえられる松平春嶽(慶永)のもとには、中根雪江、鈴木主税、橋本左内、三岡八郎(由利公正)、熊本藩から招いた横井小楠(よこいしょうなん)等が、高い識見と理想を掲げて活躍した。

また、天然痘防止のため種痘に生涯をささげた医師笠原白翁(かさはらはくおう)や、清貧の生涯を送った歌人橘曙観(たちばなのあけみ)も、幕末期の福井の歴史に光彩を放っている。

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春日山城

Thursday, 02 August 2012
【春日山城址 土塁】
春日山城内で最も良好に残っている土塁跡です。郭を普請(ふしん)する際、削平したときに出た土を盛り固め、防衛の役割を果たしました。

当時は、各郭にこのような土塁が築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像されます。

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