2012年6月アーカイブ

小松城

Thursday, 28 June 2012
左手(北側)には、長さ約20mにわたって凸部をなす石垣が残る。
さらに10m程進んだところに、対岸の"中土間へ渡る"車橋がかかっていた。

最上段の石の多くは欠損しているが、現在地上高約2mが見え、当時の記録から推測すると、道路下に少なくとも高さ約2.5m分の石垣が眠っていることになる。

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春日山城

Saturday, 23 June 2012
【春日山城址 毘沙門堂】
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50センチ)が安置されています。

尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で痛みました。昭和3年に第15代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、名匠高村光雲先生が1年余を費やして修理いたしました。

そのさい先生は御分身をつくり、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同2年3月に完成し、当市(当時春日村)に寄進されました。
翌6年11月に、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのであります。

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苗木城

Wednesday, 20 June 2012
苗木城は木曽川の北岸、通称 城山とよばれる高森山に築かれた山城です。

山全体に巨岩が露出し、この岩を巧みに利用しながら狭い平場に城郭を築いていました。

北側から渦巻き状に三の丸、二の丸、本丸と続き、山の頂上の岩の上に天守が建てられていました。

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砥石城

Sunday, 17 June 2012
この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に枡形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して砥石城と呼ぶ。


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松江城

Thursday, 14 June 2012
天守は、付櫓を加えた複合天守で高さ30m、外観5層、内部は6階となっており、最上部は望楼式で、下見板張りの壁や狭間、石落としなど実戦本位で安定感のある武骨な体裁に、桃山風の壮重雄大な姿をつたえている。

城主は、堀尾忠晴、京極忠高の後、徳川家康の孫にあたる松平直政が信州松本から移封され、以来、松平家10代234年間にわたって出雲国を領した。

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一乗谷

Sunday, 10 June 2012
【朝倉氏の歴史】
朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国しました。

朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定しました。
以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれました。

義景は、足利義昭を南陽寺に迎え観桜の宴を催しました。

しかし天下統一の刀根坂の戦いで1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き討ちにあいました。

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七尾城

Wednesday, 06 June 2012
七尾城は、室町幕府の将軍を補佐する管領(かんれい)職を勤めた畠山氏の有力庶流として、応永15年(1408)に独立した能登畠山氏(能登国守護)が、戦国時代(16世紀初頃)に能登府中(守護所)にかわる新たな拠点として築いた山城です。

七尾城は、標高約300mの山頂部に所在する本丸を中心として、北側の山麓までのびる尾根一帯を曲輪(屋敷地)を多数築いています。こうした曲輪が築かれている尾根が七つ(筋)があることが、七尾の地名の由来と言われています。
現在地は、七尾城の中心部北側に位置する「二の丸」と呼ばれる曲輪です。

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掛川城

Sunday, 03 June 2012
嘉永(かえい)の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災にあい焼失しました。

元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石(ねかためいし)を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十米北側に創建当時の姿に復元しました。

この発掘で門を囲む枡形の築地(ついじ)と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。

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