2012年2月アーカイブ

小浜城

Wednesday, 29 February 2012
関ヶ原合戦の戦功によって若狭の領主となった京極高次が慶長6年(1601)、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城(みずき)として築城を始めた。
別名を、雲浜城とも呼ばれる。

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川中島古戦場

Sunday, 26 February 2012
武田軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともとは鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺 恵林寺(えりんじ)の禅僧 快川招喜(かいせんしょうき)の筆になるものである。

「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。

武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏訪南方南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。
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岐阜城

Wednesday, 22 February 2012
13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令(まんどころれい)二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。

二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称(とな)えました。
その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。
美濃の場合、関の新長谷寺(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。

その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏(いなばし)と改ため稲葉山城(いなばやまじょう)といわれるようになりました。
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松本城

Wednesday, 15 February 2012

我が国現存最古である5重6階の大天守を中心に連なる5棟の櫓が国宝である。

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彦根城

Sunday, 12 February 2012

この彦根城は、慶長5年(1600)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。

その後、直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死、慶長8年(1603)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。

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新発田城

Thursday, 09 February 2012
新発田城は、戦国時代には佐々木氏の一族新発田因幡守(いなばのかみ)重家の居城であり、近世は慶長3年(1598)に入封(にゅうほう)した新発田藩主溝口秀勝が築城を開始し、以降溝口氏12代の居城となりました。

廃藩置県後、歩兵16連隊の兵営となり、現在は新発田城址公園と陸上自衛隊駐屯地となっています。
石垣延長は約350m

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甲府城

Sunday, 05 February 2012
別名"舞鶴城"

甲斐国は、天正10年(1582)武田氏滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正18年(1590)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政、幸長親子により治められました。

甲府城は慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永2年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保・吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。

柳沢家の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。

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